最近考えたので忘れないうちにメモ。
自分は自他共に認める理屈人間なのだが、感情のないロボットみたいな風に言われるとカチンとくる。(攻撃されたということ自体もイヤだが、それより無根拠な印象論で現実を解釈しているのがイヤ)
なぜなら自分はヘッセやドビュッシーやムンクやシシリー・メアリー・バーカーに感動するような情緒的な一面があるからだ。だから、理屈と感情が相反するというような語り口に違和感を覚えていた。最近気づいたのは、人間の内側にはまず感情があって、それを表に出すときに感情のままか理屈に変換するかの違いがあるんじゃないかってこと。
例えば共通の友人が死んで、AさんとBさんが同じくらい悲しい思いをしたとします。Aさんは泣き叫び、Bさんは「お悔やみ申し上げます」と言ったら? おそらくAさんが感情的で、Bさんは非感情的とみなされるだろう。つまり俺はBさんなのではないかと。同じだけの感情が胸の内に発生しても、それの表現いかんによって評価が変わるわけだ。まあ考えてみれば至極当たり前の話だが。
例えをもう少し複雑にして、泣いてる子に飴をもう1つあげようという話になったとします。AさんもBさんも同じだけ可哀そうだと思いました。そこでAさんは「飴をもう1つあげよう」と提案しましたが、Bさんは「それでは他の子が不公平に感じるからダメ」と言いました。ここでもやはりBさんは感情のない理屈屋という評価を得てしまうんじゃないかと。というか今の俺の状況なんだけどね。Bさんはあまり感情を顔や声色に出さない方なので冷徹・冷酷なロボットとみなされるんじゃないかと。これはあまりにも悲しい。
さらに言えば、Aさんは飴をもう1つあげることで発生する周りの負の感情(不公平感)をわかっていないんじゃないかと。目の前の問題解決に心動かされ、全体像が見えなくなっているんじゃないかと。実はBさんは泣いていない子にも共感しているのではないかと。そう考えられるんじゃないか?
言ってしまえば【感情的⇔論理的】という対比は、実は【近視眼的⇔大局観的】という対比の方がしっくりくるんじゃないかと思った。だって俺感情あるもん。ヘッセの郷愁で泣いたもん。なのに、自分の感情を咀嚼することのできない人間から排除されたり価値観を矯正されたりするの、すげー疲れる。まあここで言ってることも分からないだろうからしゃーないけどな。はああ~~……。